日本文化とアメリカ文化

 

 

 

 

 

<序論>西暦2000年を向かえ、これからの世の中は、外国とのつきあいが何よりも大切になってきている。世界の人間がどのような文化を持っているか少しでも勉強しておくことは、21世紀を生きていくうえで、必要であるだろう。

 

  日本人は単一民族であるから、あまり価値観の対決がないといわれているが、本当でしょうか。「日本」という国は、はたしてそんなに一つだったんでしょうか。むしろ、近代以降に「一つなんだ」とされて、「日本」は一つだと今みんなが思い込んでいるだけなのではないだろうか。

 

  日本人は、「国民」としての自己、「日本」という自己に対する想像力はものすごく強い。これは、日本に限らず、近代国家、国民国家にかなり多くみられるものである。

 

 またさらに、「『日本』は単一民族国家じゃない。アイヌがいて、沖縄の人々がいて、大和民族がいる。あと在日韓国・朝鮮人もいる」という人がいます。こういうふうにいう人は、多少、他者に対する想像力あると思います。

 

  しかしはたして、この考えは正しいのでしょうか。

 

  なぜかというと、「沖縄」だって、宮古島とか八重山をはじめとする離島に行くと、自分がウチナンチュウ(沖縄人)だという意識ない人が今でもたくさんいますし、そこでは昔はそういうウチナンチュウ意識なんか全くなかった。すると、今、沖縄県民となっている人々を「沖縄」という言葉でくくることはできないんだということになってくる。「アイヌ」も同様。「アイヌ」とされているものの中には多様性がある。「大和民族」もそう。東北と九州、四国、大阪と東京、地方によって差異がある。

 

  これらの地域の人々が同質に見えるのは、あくまでも相対的にそうであるということであり、またそれも近代以降の作為の結果ということを考える必要がある。「大和民族」とくくることは、実はとてもおかしいのです。

 

  一方、他民族国家といわれている、アメリカ国民には共通の文化的特徴が、まったくないのでしょうか。すでに百年以上前に、リンカーン大統領は建国の父祖たちを引き合いに出して、アメリカ統合のナショナリズムをかき立てています。社会全体の構造や文化的状況を「公の文化」としてとらえれば、サラダボールと形容される他民族国家であっても、日本からみれば、共通の特徴を発見することができます。

 

  これから便宜的に、日本民族と、アメリカ民族といった二つの民族を、それぞれひとつの共同体として意識し、ふたつの集団の文化的特徴を、比較といった観点から、それぞれの相違点を論じていきます。

 

 

 

<本論>?アメリカ文化と、日本文化においての、「集団我」においての相違点。

 

  アメリカ文化:「独立」と「自由」が精神文化の中心である。なんと言っても、アメリカという国家自体が、イギリスから「独立」している。(カナダもオーストラリアも政治的にイギリスとつながっている。)また、アメリカのことをアメリカ国歌では、'THE LAND OF THE FREE'という。集団への所属意識は高くないが、以下?で見られるように、National identityが強い。

 

  日本文化:「和」が精神文化の中心である。このため、個人としてのアイデンティティーや決断力に欠ける。集団への所属意識が強く、個人だと控え目で遠慮しがちだが、集団になると人が変わったように積極的になる。また個人決定よりも集団決定の方が、重く見られている。(「赤信号みんなで渡れば恐くない」ビートたけし)

 

?アメリカ文化と、日本文化においての、「自我」においての相違点。

 

  アメリカ文化:世界の縮図のように様々な人々がいるので、「みんなお互いに違う」ということを基本としている。そのため、社会が流動化をうながすものになっている。例えば、同じ大学生であっても、年齢層が幅ひろかったり、転職率が高いことが挙げられる。

 

  日本文化:自己評価による内的客我に対して他者の評価による外的客我の方が重く見られている。その結果、主我が消極的になる場合がある。つまり他者の目を気にして、自分が気後れ、弱腰になる傾向がある。

 

?アメリカ文化と、日本文化においての、「歴史/国旗/国歌や National identity」においての相違点。

 

  アメリカ文化:十数年前まで「アメリカ史」が大学の一般教養の必修科目でした。 現在でも専攻に関係なく「アメリカ史」を履修する学生が多いのが実情です。また、国旗に対しては米国人の9割以上が愛着を持っています。国歌が好きなアメリカ人は89%にのぼり、National identityが高い。しかし、米国では保守的な地域では国旗にかなりの愛着があり、国歌が大変好きである率が多く、地方にいけば、「かなり好き」「大変好き」といったveryの部分が落ち、好き加減や愛着度がやや下がる傾向があります。米国内では地域差や所属階層などによって愛国心に関しても微妙な差異があります。

 

  日本文化:このところ、日本の学生の政治に対する関心の低さがしばしば指摘されています。 しかし、政治に関心を持つには、ある程度自国の歴史の流れがつかめなければ、全体の動きが把握できない事は明らかです。日本では「愛国心」というだけで偏向とされがちで、健全な国家観や日本人像を構築しにくい社会や教育の現状があります。日本人の歴史への関心度はお粗末なほど低く、高校生の間では関心がない者が7割近くになり、大学でも半数以上のものが関心を持っていません。日本では大卒以上学歴取得希望の者が、歴史に関心がないとする比率が高い傾向がある。また、国歌が好きな日本人は 23%にすぎません。日本の国歌が全く好きではない人が3分の1以上おり、8割近くが国歌を好んでいないというデータがあります。日本では高校/大学、取得希望学歴/性別に関係なく一様にこの傾向が見られます。

 

?アメリカ文化と、日本文化においての、「男女平等」においての相違点。

 

  アメリカ文化:「女性解放運動」はここから始まりました。およそ百年前、女性の意識の覚醒にその文学的人生のすべてをかけたケイト・ショパンの代表作『めざめ』(The  Awakening,1899)は、女性の領域はあくまでも家庭であり、妻であり、母であること、を拒否することによって自己の精神の独立を保とうとしました。この作品は当時のアメリカ文学界では受け入れられませんでしたが、1960年代後半、セイヤーステッドによる「再発見」により、女性解放運動の嵐のなかで、フェミニズムたちによって熱烈に支持されました。現在、アメリカでは女性が家庭のボスである場合も珍しくありません。また、あらゆる職種で女性が活躍できるとされています。(実際には、アメリカでも、中古車購入のさいに男性よりも高い値段をふっかけられる、といった事例も存在する。)

 

  日本文化:法律的には、男女雇用機会均等法などがあり、法の下の平等が実現されつつあるが、実社会の中での男女平等は、韓国と同じく、中国・アメリカ・ヨーロッパよりずっと遅れています。「男は仕事、女は家庭」という意見に関しては、昔から女性の方がこの意見に反対することが多かったが、近年は男女共に反対する人が増えています。日米で働く女性の割合には大きな差がないが、税制の問題もあって、フルタイムで働く女性の割合がアメリカより小さい。また、アメリカと比べれば日本では高学歴になっても外で働かない傾向が強い。日米の男性の賃金を規準にして比較すると、日本の女性の賃金が低い。日本の男性の家庭における役割は多くの先進国より小さい。子どもを「男らしく」「女らしく」育てようとする傾向がアメリカよりも日本に強い。「もう一度生まれかわるとしたら、あなたは、男と女のどたらに生まれてきたいと思いますか」という問いに対して、日本の男性の9割は「男」と答えるが、女性で「女」と答えるのは6割程度である。

 

?アメリカ文化と、日本文化においての、「宗教」においての相違点。

 

  アメリカ文化:現在、合衆国の成人の約87パーセントがクリスチャン。そのうち、主要なモノをあげると、ローマカトリック(26%) バプテスト派(19%) プロテスタント(10%) メスジスト派(8%) ルター派(5%) です。また、約2%がユダヤ教徒であり、2%が「その他」である。無宗教の人々の割合は、全国では7.5%であるが、州による差異は顕著である。最も無宗教率の高いオレゴン州は17%であり、最も低い所はノースダコタ州の1.6%である。西海岸に無宗教者が集中しているが、これは人口が多く、宗教的な人が多い東部と、開拓的・開放的で荒々しい個人主義者が多い西部の、人間性の違いが関係している。歴史的な背景として、アメリカ合衆国の地に最初に定住したヨーロッパ人はピューリタンの人々でした。イギリスがイギリス国教会を国の宗教として宗教の統一をはかった時一部のピューリタンの人々は弾圧を避けて新天地アメリカへ渡ったのでした。彼らは清教徒と訳されるように清貧を旨とするかなり厳格でかつ心やさしいキリスト教徒でした。彼らは今のアメリカとカナダの東海岸に入植し、開拓民としての農業生活を送っていました。一方、ヨーロッパ大陸からはピューリタン以外にもプロテスタントとカトリックの宗教対立に嫌気のさしたいろいろな宗派の人たちが新天地アメリカへ渡ってきました。彼らの中には東海岸に留まらず、中南部へ行って農場を開いたり、牛の放牧をはじめた人たちもいました。しかしながら、アフリカからの黒人奴隷を大量に使用した大農場主の多くは、心やさしいキリスト教徒ではなくて、欲に目がくらんでアメリカにやってきて定住した人たちでした。このようにアメリカ合衆国には全く宗旨の違う2つの「キリスト教」がヨーロッパからやって来たのです。

 

  日本文化では:日本での主な宗教には、神道・仏教・キリスト教がある。神道は、日本民族の生活体験から生まれ育った原始時代からの自然宗教というべきものであったが、仏教・儒教の影響を受けてきた。多くの日本人は宗教には寛容であり、同時に複数の宗教とつながりがあっても不思議と思わない。日本人が宗教に寛容であるというより、多神教である神道が、外国から入った宗教に寛容であったためだというべきかもしれない。多くの日本人は誕生や結婚の儀式は神道により、葬式は仏教による。同じ人間が神社に初詣(はつもうで)もするし、お盆の寺参りもし、クリスマスも祝う。各宗教が自宗の信徒数として発表している数は、神道1億900万人・仏教9,600万人・キリスト教146万人(1991年文化庁)である。宗教人口を合計すると、日本の人口の約2倍に達するという事実は、外国には例がない。日本では憲法で宗教の自由が保障され、厳格に実行されている。したがって国教というものはなく、国の行事も宗教とは一切無関係である。国公立の学校では、宗教教育が禁じられている。統計によると、特定の宗教を熱心に信仰しているとする日本人は少なく、宗教には無関心とみずからいう者が多い。この理由は、元来多神教的であった日本古来の神道の影響から、どの宗教に対しても伝統的に寛容であったことが挙げられる。千石保氏によると、アーノルド・トインビー博士のいう東洋的没我愛を日本人は持っており、本当はより宗教的であるという。そのため特定の形式を持った宗教を必要としない。東洋的没我愛とは人間だけでなく、宇宙にあるすべてのものに捧げる愛であり、自分を忘れた犠牲の愛であるともいう。(千石保著『日本人の人間観』)また、宗教哲学者の磯部忠正氏は、著書の中で「日本人の一般的な宗教意識には、キリスト教にいわれるような人格的な唯一絶対神はないのである。その代り、日常身近のあらゆる事象や自然現象の中に、神秘の生命を感じる。いわゆるもののあわれの意識である」と述べている。(磯部忠正著『日本人の信仰心』)

 

 

 

<結論>価値観が違うから議論する、議論するから物事がはっきりする、そこから本当の相互理解が生まれると思います。大事なことは、日本人の考え方が一番正しいわけじゃないってことであり、もちろんアメリカ人の考え方が一番正しいってわけでもないことにあります。日本人でもアメリカ人でもない、少数民族が世界にはたくさんいて、みんな考え方がちがう。そこが面白いはずである。要は互いを理解することがって大事なことです。以前ある評論家が「日本の常識は世界の非常識」って言っていました、日本のいいところがわかったり、みなおすべきところがわかったような気がします。

 

  本論で述べたように、日本では同質化の度合いが高いため、ホンネとタテマエ、様々な宗教に対しての寛容など、生活に多元性を含んでいます。一方、アメリカでは同質化の度合いが低いため、明確な愛国心や、宗教、法律を必要とします。このため、日本では人と違ったことが情報となり、アメリカでは人と同じことが情報になります。大衆文化としてアメリカの映画産業が発展したことの裏側には、分かり易い面白さ、つまり他人と共有できる情報を追求してきたアメリカ文化の一面がはっきりでていると感じます。

 

  また、日本では他民族に対して同化主義政策をとってきました。しかし、同化主義は明らかに少数民族のアイデンティティを侵害するものです。そこで、文化は一つでなければならないというこれまでの発想から、その多様性をみなが認めながら社会統合をしようとする視点へと移行していこうとする「多文化主義」(multicultualism)の考え方が必要とされます。

 

  よく「アメリカ」と「日本」との関係を、「親子関係」と表現する人がいます。たいていは「日本文化」「アメリカ文化」を紹介しあってお互いを知る、とか「草の根の国際交流」とかいう答えが返ってきますが、皮相な感じだったり、何となく歯切れが悪かったりするんです。私自身は、「交流」はもちろん大切だけれど、その前提として、もっと根本的なところで人々が認識転換をする必要があると考えています。それはつまりこういうことです。(所詮イデオロギーであるところの)「日本文化」や「アメリカ文化」を紹介しあったって、別に「親子関係」はなくならない。そうではなくて、私たちはみなお互いにさまざまなイデオロギーに縛られて生きているんだ、そこから出なければならないんだ、ということを絶えず自覚し、実際に脱イデオロギーを試み続ける、そいう「在外」「越境」人間になったところから、「対等」への道が始まるんじゃないか、と思うんです。なお、ただし、こういう言い方すると、もし「国民」「国家」をイデオロギーだといって片付けちゃったら、歴史的な戦争責任や謝罪は関係ないということになるのか、という質問があると思いますが、そういう話ではありません。「国家」はイデオロギーにすぎないけれども現に存在しており、「日本国民」となっている人は、イデオロギーにすぎないけれども現に「国民」である。「国民」であれば、「国家」のやったことの責任は、当然「国民」として負わなければなりません。戦争責任、植民地支配の責任は、「日本国」はもちろん、2000年現在の「日本国民」一人一人にも当然ある、そういうことです。 わたしは、「日本」「アメリカ」という、イデオロギーに安住しないで生きていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

書名:日本的自我

 

筆者:南

 

出版社:岩波新書

 

出版年月日:1983年9月20日

 

 

 

書名:現代アメリカ像の再構築

 

筆者:本間 長世

 

出版社:東京大学出版会

 

出版年月日:1990年3月20日

 

 

 

書名:日本とは何か

 

筆者:梅棹 忠夫

 

出版社:日本放送出版協会

 

出版年月日:1986年5月20日